読書メモ「氷点」三浦綾子
1,はじめに
最近すごい本を読んだ。
その本とは、三浦綾子著の氷点である。
簡単に概要は次のとおりである。
娘を殺害された夫婦が、その娘を殺害した犯人の子供を引き取り育てる、というものである。
このような事情になった背景には種々の事情があるが、この物語はこうした人間関係を描きながら、主人公の成長や人々が互いに誤解・憎しみ合う様子を描写する。
2,恐ろしさ
(1)文章が科学的である
この物語は、犯人の子供である陽子の成長と、被害者家族の心情、感情のもつれなどを丁寧に、「わかりやすく」描写する。
すなわち、人々の心理の描写に対して、Aという現象が生じたのだからBが生じる、というように因果関係を丁寧に、本当に恐ろしいくらい丁寧に描写する。
読んでいて、この文章を書くためには、どのような人生経験が必要なんだと、恐ろしくなった。
(2)普通の人々
この作品の恐ろしいところは、作品の中で生じた事象が現実に生じた場合、作品内の人々と同じような、凡庸な悪を普通の人々が普通に行うだろうなと、読者に思わせるところにある。
以下2つの点についてひたすら語る。
1つ目は、被害者家族を使用し筆者が書きたかったことである。
読んでいて、(A)凡庸な悪と(B)大きな子供という2つの言葉が頭の中に生じた。
そこで、被害者家族については上記2点について論じる。
また、犯人の実子であり被害者家族に引き取られた陽子について、いくつか思うことを記載する。
(i)被害者両親
(A)凡庸な小さな悪
被害者の両親は、主人公の陽子が成長していく過程で粛々と小さな悪をする。
ここで驚くべきは、小さな嫌がらせな点である。
陽子を引き取った被害者の家族は少なくとも、犯人の子供に日々食事などを与え、生命の維持に支障を生じさせない環境を提供している。
それは、世間体や暴行・虐待などの大きな悪をなす勇気のない、普通の人々らしいと言える。
この作品の被害者両親は、愛情を与えない、実子よりも大事にしないなど、小さな悪を行う。
私だってそうするだろう。
もちろん犯人の子供を引き取るなんて愚かなことはしない。
しかし、仮に引き取る事になり面倒を見ることになった場合、その子供がいるという社会的事実が存在する以上、私は、法律に違反するような事はしないはずである。
しかし、心情として、抱えたものは、無意識に行動に出るだろう。
この本は、あるがままの人間を描く(犯人の子を引き取る点を除く)。
普通の人々は英雄のように振る舞うことなんて絶対にできない。
(B)大きな子供
この小説に出てくる人々は子供である。
子供と大人の違いはなんだろうか。
一般的に現代日本において大人とは、仕事をして自立をしている人間と定義することができるだろう。
だから、金を稼いでいれば何でもして良い、というようなDV夫などが生じる。
しかし、私は上記を大人の定義として採用しない。
私は、子供と大人の違いとは、自分で判断し決断し責任を取ることができるかどうかであると考える。
例えば、我が刑法典は少年犯罪について特別法を用意する。
それは、判断能力が未熟であること、公正の余地があることなどである。
また、我が民法典も未成年者が締結した契約につき、保護者がその契約の取り消しをできる旨を規定する。
そして、我が不法行為制度も、責任能力という制度を定め、同じ事情が生じたとしても、大人と子供で対応を変える。
これら法制度・社会制度にも現れていることからも、大人について、主体的に判断し、その責任を負える存在であると定義できるはずである。
だからこそ、私は、個人として判断をし責任を負う主体を大人と定義したい。
そうした点で被害者家族を分析すると、「汝の敵を愛せよ」は可能なのか、という常人には理解出来ない理屈で犯人の子供を引き取る、という判断をしておいて、人の子供を全うに育てるという責任を履行できていない点で(衣食住の提供と、子供を育てるとは、異なる概念かと思われる)、責任を放棄した大きな子どもたちの物語だと言える。
(C)身の丈を超えるとどうなるか
先に私は、主体的に判断し行動し責任を負える個人を大人であると定義した。
そこで、本書を振り返る。
本書の中で、被害者家族は犯人の子供を引き取り育てるという判断を下す。
これにより、もともと潜在的に被害者家族内にあった諸問題が噴出し、また、悪化したと言える。
実子を殺害した犯人を引き取り育てるということは、普通の強度の人間にできることではないと考える。
その点で、被害者家族は人の身の丈を超えたことを行ったと言える。
身の丈を超えた欲望を持ったりすることは、破滅につながると一般的に説明される。
自分にできることを見定め、執行することが大事なのだと思われる。
(D)神無き道をゆくもの
なんの本なのか覚えていないが、ある本で読んだ以下のワンシーンを思い出した。
それは、ユダヤ人の若者とユダヤ教の指導者の会話のワンシーンである、
若者はとても現実的な物の見方をする。
- ユダヤ人は第二次大戦中に大量虐殺をされた。
- その経験から、神に祈っても神は我々を助けない。
- 我々を救わなかった神などいらない。
これに対してユダヤ教の指導者は、神に助けてもらうなど子供のすることだといいう。
- 大人の信仰とは、神無き道をゆかなければならない。
- 神の不在に耐え、あるべき世界を作れる者が大人である。
誰かの何かの、たとえそれが神であったとしても、手を借りて助けてもらっている時点で、子供であるという意見である。
私は人間としてまだ未熟なため、真意を汲み取れていない。
高尚な話の後でとても心苦しいが、俗な言い方をすれば、上司の判断を仰がなくても仕事ができる人が一人前、ということだと理解している。
おそらく、神などに期待せず自力執行をできるようになれということ、ではないはずなのだが・・・
(ii)犯人の子
陽子はどんな悪をされても、くじけなかった。
それは、周りが悪を成したとしても、私は悪を成していない。
おかしいのは外のことであり、私は特に問題はない。
そういう、切り分けを非常にシビアに行っている人物だからだと、後半で語られる。
悪をするよりは、される方が良いという言葉がある。
それは、悪をなすと、自分の中に悪を取り込み魂が汚れるからだ、という説明に留める。
私は、魂の平穏よりもフィレンチェの平穏のほうが大事だとした政治家(マキャベリ)の発想を知っている。
つまり、どんな綺麗事を語ったとしても、人は悪をなさねばならない時があり、そのときに人は悪をなす。
そしてそれを自己欺瞞しながら生きている。
むしろ、綺麗事よりも行動が求められるときもあるだろう。
例えば、先輩が私に異様な作業をさせ、システムが吹き飛ぶことがあったとする。
人間なんてそんなもん。
いずれ私も、きっと同じようなことをするのだろう。
3,まとめ
この本を読んで元気になる人はいない。
陽子はラスコーリニコフとは逆のパターンで自己の確信が打ち砕かれる。
(1)悪を行った者
罪と罰の主人公ラスコーリニコフは、1を犠牲に100を救えるならば、その行為をするべきだ、として、金貸しの老婆を殺害する。
小さな悪は大いなる善行によって消える。
強者はすべてが許される。
そうした思考を持ってラスコーリニコフは悪を行った。
しかし、老婆の殺害後、計画時に持っていた謎の確信感や自信が行為後急速に消滅し、精神をおかしくする。
責任を取り切れない行為をしたとき、人間は壊れるのだろう。
(2)執行をしなかった者
陽子はラスコーリニコフとは異なり、自ら悪をなす事はない。
責任の取れない行為をしたわけでもない。
だから、正直意味がわからなかった。
でも、なんとなくわかるような気がする。
例えば、がんを宣告された者は完治後も再発等の不安を抱えながら生き続ける。
陽子は、自らの中に悪の可能性を見出し精神を病む。
漠然とした不安感、きれいな状態には戻れないという絶望。
一度、法律や情報技術に手を出すと、もう一般人には戻れない。
そういう絶望感。
自分を支え続けていた何かを喪失する。
そういう物語なのだろう。
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