ポエム(2020.01.13)
0,目次
- はじめに
- 物語の効能
- 夜勤明けでおかしなテンションになっている
- おわりに
1,はじめに
本稿はポエムだ。
普段の技術系の記事や法律系の記事ではなく、ポエムだ。
発端は単純で、本棚にある本をパラっと開いたところ、以下のような記述があった。
私が文弱の徒に最も警戒を与えたいと思うのは、ほんとうの文学の与える危険である。ほんとうの文学は、人間というものがいかに宿命に満ちたものであるかを、何ら歯に衣着せずにズバズバと見せてくれる。・・・この人生には何もなく人間性の底には救いがたい悪がひそんでいることを教えてくれるのである。
三島由紀夫「若きサムライのために」(文春文庫,1996年)90頁
端的にいうと、ヤバイ本を読むと生きるのが辛くなるよ、ということだ。
上記の本から謎のインスピレーションを受けたため、
書き上がったのが本稿である。
形式的に言えば本稿では、
夜勤明けの開放感から物語の効能について記載した。
また、スキル「法律学」やスキル「情報通信技術」を獲得し、
専門家として目覚めたものが持つ思考回路についても記載した。
(真実か否かはご自分でご判断くださいませ)
実質的に言えば、疲れ切った社畜の戯言である。
2,物語の効能
人間は事実を事実として認識・認容することができないと考える。
例えば、会社員が会社にいる状態をイメージして欲しい。
すると、10人中2人は会社員が仕事をしている状態をイメージする。
このように、我々はコミニュケーションを行う際に前提として、
物語(先の例では「会社員は会社で仕事をしている」という前提知識)を多いに参照している。
ここで、この会社員が会社で仕事をしている、という物語を知らない者はどのように考えるか。
ぼく「会社員が会社にいる?え?住んでるの!?」
冗談はさておき、我々は他人とコミニュケーションを行う際に、無意識のうちに自分が持っている前提知識・物語を相手が持っていると思い込んでしまっている。
話がすこし脇道に逸れたが、共通項としての物語は、コミニュケーションを円滑にする機能を持つ。
また、事実を人間が理解する際に役立つ機能も持つ。
例えば、筆者が以下のような発言をしたとする。
まず、いきなり見ず知らずの人がこんな発言をした場合、驚きのあまり思考停止するのが通常であろう。
この人物が述べるところの、
法執行回路とは何か、
情報通信技術執行回路とは何か。
この発言の深い真意を読者各位が理解するには、
筆者の意図を理解するための補助線としての物語・前提知識が欠かせない。
実は、このツイートは三連休のど真ん中に夜勤をする、その出勤中に呟かれた物である。
この悲壮感漂う前提知識を持って再度読んで欲しい。
だが、諸君は真意を一ミリも理解できないだろう。
悲しいことに私の真意をお伝えするためには、
私が思考の前提としている事柄について、
文書化し定義し共有せねばならないのだが、
それを書くには余白が少なすぎる。
(驚くべき証明を見つけたがそれを書くには余白が狭すぎる、ドヤァあああああああああ)
という冗談はおいておいて、真面目に説明すると、
筆者は法律学を大学で学んだため、
日本法が目の前の社会事象に適用されるのか否かを判定する論理回路のようなものを脳内に構築している。
あえて言うならば、脳内裁判所のような物である。
思うに、法学徒はこの法執行回路を有すると解する。
私は日本法制度の高度な運用能力をまだ有さない。
私が落ちこぼれなだけである。
次に、実は筆者は情報通信技術についても詳しいのである。
したがって、専門知識が要求される事柄について事態を処理する思考回路が脳内にある。
一般人が考えることと、専門家として考えることは、かなり異なることがある。
特に、専門知識を用いなければできないことができるのだから専門家なのである。
すなわち、専門家は一般人ではないから専門家なのである。
圧倒的な知識と実力を持たない人間は、専門家ではない。
悲しいことに、私は一般人である。専門家になりたい。
本節を読んで内容が理解できた場合、読者は極めて高い共感性があるといえます。
私自身この文章を読み返して、何が言いたいのか全くわかりません。
3,夜勤明けでおかしなテンションになっている
実は昨日夜勤をして、昼ごろ帰宅し、一度寝て、起きてこの文章を書いている。
別に精神が錯乱している人物が書いているわけではない。
疲れ・仕事のストレス、ミスの許されないシビアな作業。
そういった世俗の事柄から解放され、自由を謳歌していると言って過言ではない。
4,おわりに
Twitterを見ていると以下のようなツイートがあった。
この呟きを要約すると次のようなことが言える。
抑圧されるものは過剰に意識される。欲望は禁止によって昂進する。だったら、ぜんぶ解放してしまって、そういうものに煩わされるのはもうやめましょう、というのが上野千鶴子の主張であるように私には思えた。
内田樹「ためらいの倫理学」(角川文庫、平成15年)191頁
つまり、労働を禁止すれば、労働意欲に満ち溢れると言えるだろう。
論理的帰結として間違いないな。
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