PSYCHO-PASS 3期と故意・過失・国家賠償法
0,目次
- はじめに
- PSYCHO-PASS
- 概要
- 法的に着目すべき点
- 国家賠償法
- 国家賠償請求が可能な場合って?
- 「故意または過失」が要件
- 故意なく損害を構成する一部を執行した場合
- 最判昭和57年4月1日
- アイヒマン裁判
- 参考文献
1,はじめに
みなさんは「PSYCHO-PASS」と言うアニメ作品をご存知でしょうか?
これは、科学技術の発展により人の心理状態を計量可能になった未来の日本を舞台に、刑事たちが犯罪とどう向き合いうかを描く物語です。
Amazon Primeでこのシリーズの最新作たる第3期を第3話まで観ました。
TVアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス 3』公式サイト
観終わった際に、組織的に何かしらが執行された場合に、その組織的に実行された故意や過失をどのように評価するべきか、と言う昔学んだ論点を思い出したので、一気に書きます。
2,PSYCHO-PASS
(1)概要
本稿が題材としている作品「PSYCHO-PASS」は先にも述べたとおり、科学技術が発展した未来の日本を舞台にしています。
注目すべき点として、ある人間が将来犯罪を犯すか否かを予想することが可能な点が挙げられます。
現在の我が国は、発生していない可能性を根拠に人を処罰することは、原則として行いません(再犯者に対する刑事罰の加重について、人格に着目した特別予防のみではなく、罪を繰り返す反社会的態度に対する社会的な非難として、私は捉えている。)。
つまり「将来あなたは犯罪を行いそうだから逮捕します」が成り立つ世界ということです。
このような公権力の横暴を国民に認めさせるための、社会的な仕掛けとして「シビュラシステム」という制度が存在します。
すなわち、国家的な人間の格付け・評価システムです。
シビュラシステムは、人間の心の状態や性格などを分析し、その人物の才能が一番発揮できる職業を紹介したり、ストレスを検知したりします。
このシビュラシステムに対する国民の信頼が「PSYCHO-PASS」の世界における公権力の横暴を容認している最大の要素となっています。
古代社会でいうところの、卑弥呼が占いでこの人物を処罰すると言うと、全員がそれを信じる、というような感じでしょうか(卑弥呼とシビュラシステムって社会的な機能だけを捉えると共通しているのかね?)。
(2)法的に着目すべき点
本作を観ていたときに、ある犯罪が完成するまでに複数の人物が関与した場合どうなのか、という論点が読み取れました。
作中では、以下の行為を別々な人物が実施しました。
- ある人物がテレビなど故障させる行為
- 別な人物が窓の金具に細工をする行為
その結果、死亡事故が生じました。
つまり、ここの小さな行為が、全体としてみた時に大きな犯罪行為を実行していた、ということです。
このような場合、それぞれの行為を担当した行為者はまさか死亡事故が生じるとは思っていませんから、シビュラシステムは検知が困難となります(確信を持って犯罪を実行していないため、またそもそも犯罪を行っているという意識が行為者にないため、PSYCHO-PASSに変化が生じない)。
組織的に巨大な悪が実行された場合、誰がどのように責任をとるべきでしょうか。
3,国家賠償法
筆者は刑事法制につき何らかの公的資格を持っておりません。
そこで、一応、国から一定程度の実力があるよと認められた憲法、民法、行政法の世界のお話をいたします(一応、行政書士持ってます)。
(1)国家賠償請求が可能な場合って?
我が憲法は第17条で「何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。」と定めています。
この憲法が定める人権規定を具体化する法律として国家賠償が制定されました。
国家賠償法は第1条1項において「国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。」と定めています。
すなわち、公務員から合理的な理由のない暴行を受けた人は、国家賠償法に基づき損害賠償を請求できるのです。
(2)「故意または過失」が要件
先に、国家賠償法の条文を紹介しました。
それを注意深く読むと「故意又は過失によつて」という語句が存在します。
この規定があるため、公務員が、故意も過失もなく国民を暴行した場合は、損害賠償請求を国家賠償法を根拠に行うことは通常は困難となります。
それは例えば、火災現場にいる人を避難させるために、止むを得ず同意を得ずに身体に対して有形力を行使した場合などです(即時強制)。
(3)故意なく損害を構成する一部を執行した場合
では、誰々さんという名前のある特定の公務員の行為ではなく、役人たちが歯車であるかの如く、組織的に損害を発生させた場合はどうでしょうか?
先にも述べたとおり、サイコパスの3期では1つの事件の完成に、複数の人物が関与します。
難しいのは、事件に関与した人々が全体像を把握していないため、事件を起こしているという、認識認容が認めにくいと言えます。
すなわち、関与した人物が多く、損害を発生させた具体的な加害行為を特定することができない、と言える場合に、人はどのような責任を負うべきか、という話ができます。
(4)最判昭和57年4月1日
一連の行為の過程において他人に被害を発生させたが、具体的な加害行為を特定することができない場合、がサイコパスの3期で問われたと思います。
もちろん、刑事裁判でもなく、単なる民事訴訟(日本国の国家賠償法に基づく損害賠償請求は民事訴訟です)の話なので、まぁ刑事とかは出ては来ませんね。
我が国の最高裁判所の以下の裁判官たちは最判昭和57年4月1日に判決を下しました。
- 藤崎 萬里
- 団藤 重光
- 本山 亨
- 中村 治朗
- 谷口 正孝
すなわち、以下の有名な一説を述べたのです。
国又は公共団体の公務員による一連の職務上の行為の過程において他人に被害を生ぜしめた場合において、それが具体的にどの公務員のどのような違法行為によるものであるかを特定することができなくても、右の一連の行為のうちのいずれかに行為者の故意又は過失による違法行為があつたのでなければ右の被害が生ずることはなかつたであろうと認められ、かつ、それがどの行為であるにせよこれによる被害につき行為者の属する国又は公共団体が法律上賠償の責任を負うべき関係が存在するときは、国又は公共団体は、加害行為不特定の故をもつて国家賠償法又は民法上の損害賠償責任を免れることができないと解するのが相当であり、原審の見解は、右と趣旨を同じくする限りにおいて不当とはいえない。
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/225/054225_hanrei.pdf
今読み返すと、めちゃくちゃ長い一文ですねこれ。
要は、高等裁判所は法の解釈適用を間違えてた、すまん、ということを言っていますね。
引用中で太字にしたところなんかは、特定の個人の責任追求というよりは、組織への責任追求感が出ているなぁと感じます。
ただまぁ注意して欲しいのは、組織の中の個人が責任を負うか否か、という話と、組織が責任を負うか否かは別問題という点です。
本件判決は、行為者個人の責任ではなく、組織の責任を問いかけるものです。
サイコパスの世界のシビュラシステムは個人個人を見ることはできても、個人個人が歯車として、部分のみを実行し、それが結果として大きな事件を引き起こすようなものについては、判定できないんじゃないでしょうか?
再掲ですが、行為者は大それたことをしているという認識認容のないまま、大きな事件の実行をしていたのですから。
4,アイヒマン裁判
組織的な犯罪実行に個人が歯車として関与した場合、その個人はどのような責任があるのでしょうか。
組織の力を前に、個人は無力です。
この点につき、人類の歴史上有名な組織犯罪をご存知でしょうか?
いろいろあるところが、人間の闇なのですが、その中からナチス・ドイツの事例をとりあげます。
ドイツは太平洋戦争中にユダヤ人の大量虐殺を、法律に基づき、組織的に執行しました。
そこには、法律に基づき、殺人を行った公務員がたくさんいます。
その中の一人にアイヒマンという方がいます。
その方は、戦後逮捕されエルサレムにて裁判が行われました。
あれだけたくさんの人を殺してきた人物です。
とても悪そうな人相をしているとか、歪んだ思想にそまっている、そう人々は考えていました。
しかし、現実とは悲しいことに、アイヒマンはそのような処罰に値する悪人ではなく、ただ単に上官の命令を忠実に執行した歯車でしかなかったのです。
という、ような話をアレントの本で読んだような記憶があります。
リアリズムに徹して考えると、人は無限の悪をなす可能性を持っているのでしょう。
全ての事柄を為しうる可能性を、我々は有していますから。
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