森鴎外「高瀬舟」と自己決定権

1,はじめに

皆さんは、森鴎外の高瀬舟という作品をご存知でしょうか?

この作品は、青空文庫から無料で読むことができます。

青空文庫 森鴎外 高瀬舟

私は、これまで「高瀬舟」という単語からは、

この作品のことだけを想起していました。

ですが、ふと手にとり日本史の参考書を、パラパラ流し読みしたところ驚くべき発見がありました。

結論からいいます。

高瀬舟とは、河川などで物の運搬等に利用される、船の種類なのです。

さて、おふざけはこのくらいにして、

森鴎外の高瀬舟について、以下の内容について語ります。

注意点といたしまして、本稿にはネタバレが含まれますので、

まだ読んだことがない方は、

お戻りになられることを、お勧めいたします。

(0)目次

  1. 概要
  2. 自己決定
    1. 法的権利性
    2. 法的性質
    3. 自己決定権の制限が許される場合
    4. 私たちはゲームをしている

2,高瀬舟

(1)概要

この作品は、国家の司法作用により、刑罰権が行使されることが確定した国民と、受刑者を島へと搬送する公務員との会話で成り立っています。

島へ流される受刑者は、なぜその刑罰をうけることになったのか。

主人公の受刑者は弟さんと2人で、貧しいながらも暮らしていました。

その弟が病気になり、先も短いからと、喉を剃刀で突き自殺を図りました。

しかし、弟は死に切れませんでした。

喉への傷は深く痛むため、弟は兄に介錯を懇願しました。

それを兄は刺さったままになっていた剃刀を引き抜きました。

その行為が社会規範に対する挑戦であるとして、国家の司法権により、国家刑罰権の行使が認められました。

そして、主人公は島流しの刑の判決を受け、高瀬舟に乗っているのです。

(2)自己決定

(ア)法的権利性

自己決定権はそもそも法的な権利でしょうか?

それは、我が憲法には明文での規定はありません。

しかし、我が憲法典が保障する各種の人権が確実に保障されるための前提条件と言える性質をもつといえます。

例えば、我が憲法典は参政権(15条)を明文で認めています。

仮に、誰に投票するのか、という国民の自己決定が国家により制限されていた場合、憲法起草者が想定した、自由な選挙権の行使はできないと言えます。

また、表現の自由(21条)における、表現をしようと決定することや、労働基本権(27条)の労働契約を締結しようと決定することなども自己決定だと言えるはずです。

ここから、憲法が保障する人権各条を保障するための人権として、

個人の自己決定を国家に介入されずに行えるためにする権利、

すなわち、自己決定権が導かれます。

(イ)法的性質

もちろん、自己決定と言っても全ての事柄について憲法上の人権としての保障をうける訳ではありません。

すなわち、個人の本質(人格)やその人生を生きる上で不可欠な事柄(人格的利益)について、公的団体により勝手に決定されない・決定に介入されな権利・自由と考えられています。

例えば、特定の医療行為を受けることを、公的団体が強制した場合、それは自己決定間を侵害する違憲な行為である、となります。

(ウ)自己決定権の制限が許される場合

高瀬舟では安楽死を試みる人物が登場します。

この者の行為により、残された家族の兄(喜助)は島流しになりました。

自己決定権の行使として自らの生命を終わらせる権利があるのでしょうか?

私は、結論を出せずにいます。

自らの命を自分の所有物と捉える場合、それをどのように使用・収益・処分しても構わないのであり、そこには終わらせることも含まれると言えます。

他方で、統治の観点から、人々がそのようなことを考え行動するようになると、社会秩序が害され混乱が生じうると言えます。

いえ、これは適切ではないですね。

これは法律学的な議論ではありませんね。

倫理的にそのような権利を公に認めることは不適切だという、政策論の話でした。

法律解釈学のテンションで話しましょう。

人権の制限が認められるのは、他者の人権を侵害する場合だけだとされています。

これを踏まえると、自己決定権の行使により、他人の人権が害されないならば、制限をしてはいけないはずです(権利能力が不十分なことを根拠に規制をする場合は、権利に内在する制約として権利の制限が認められるものと介する(未成年者の飲酒の自己決定の規制など))。

その自殺者の自己決定権の結果として、他者の人権が害される場合、その行為は制限しても良いと言えます(公共の福祉論)。

では、その逆の場合について考えてみます。

その者の自己決定により他者の人権を害さない場合はどうでしょうか。

その者の行為自体が、タブーであり社会の風紀が乱れるため、規制するべきだ、というのは政策論であり、法律論として妥当ではありません。

他者の人権を害さないならば、その権利行使を制限することは、できないと思われます(これは、極論です)。

以下は私の立場ですが、これは法律論ではありません。

仮に自己決定権として自殺をする権利を認めると、いつか私がその権利を執行し得るリスクが生じます。

自己破壊的な決定をなすリスクにつき、事前に排除することが好ましいため、その権利を私は認めません。

極めて、自己中心的な発想法で恐縮ですが、この立場に私は立ちます。

認めませんよ。可能性があれば、とりあえず試すのが私ですから。

(エ)私たちはゲームをしている

私たちは生まれる場所や環境、出会える人々、得た経験など、様々な差異を持っています。

そして、私が体験した経験や思考と全く同じ経験や思考を持つ人は、この世界に私しかいません。

私たちは、コンピューターのように代替性を持つ存在ではありません。

例えば、コンピューターは同じ経験・同じ思考をする巨大な1つの個体になり得ますが、私たちはどこまでも、固有性を持った個人のままです。

我々は固有の何かを持って、なんらかを成すために、プレイヤーとして、この世界というゲームをしているはずです。

勝手にゲームを終わらせないほうが、きっと、いいと思います。

3,おわりに

高瀬舟を読みながら、宿命論的世界観の怖さを感じました。

高瀬舟とは異なりますが、三浦綾子さんの小説で主人公が許してくれる絶対的な権威が欲しいと語るシーンがありました。

罪とは行為者が自覚しなければ、おそらく究極的には特に意味を持たないのだろうなと考えています(それが犯罪の場合、行為者の権利・自由を国家刑罰権により侵害し、犯罪への社会的制裁は行われますが)。

本作の主人公は、切迫する具体性を持って一種の清々しさを読者に伝えると思います。

清々しいままに、自らの行いを受け入れて、生きていく人物を感じました。

人はおそらく善・悪という二分法の物差しでは計量しきれないのでしょう。

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