読書メモ「続 氷点」三浦綾子

1,はじめに

先月、記事にした氷点の続編として「続 氷点」という作品が存在する。

罪と罰、人々の罪が如何にして許されるかなど、人間を深く洞察した作品である。

本稿では、それを読んだ感想等を記載する。

2,既視感

(1)前作について

前作では、実娘を殺害された被害者家族が犯人の実子を養子として引き取り育てるという中で、家族の不和や相互の不理解が描かれる。

その中で、主人公は被害者家族から小さな悪を受けながら育つ。

とはいえ、主人公は悪を為さなかった。

そのため、主人公には悪・罪はないと言える。

しかし、主人公は前作の最後において、自分の中に罪の可能性を見出し自殺を図る。

本作では、一命をとりとめた主人公とそれを取り巻く人々との群像劇が展開される。

(2)罪・罰・許し

(i)罪

まず、罪とはなにか。

社会的な意味における罪ならば、我が国においては、刑法典及び特別刑法等が規律する、構成要件に該当する違法でありかつ有責な行為を言う。

しかし、本作品が問題とするのは、社会の統制という点での罪と罰についてではなく、純粋に個人の生き方としてのものである。

自分が執行していない罪を、引き受ける事になんの意味があるのか。

(ii)許しの主体要件

罪との向き合い方として、作中では主人公の真正母の夫が登場する(三井夫)。

三井夫は兵隊として出兵中の職務命令の執行結果について、罪の意識を抱いた。

それをもとに、三井夫は妻の不貞(出兵中に浮気して第三者の子供を出産)を許した。

曰く、罪を許せる者は、自らの罪を自覚している者であると説明される。

しかし、これはあくまでも、他者の罪を許し得る存在についての要件に過ぎない。

主人公は自身の罪を許す何かを求める。

(iii)主人公にとっての許しの主体要件

主人公は、本作の最後にて流氷の中に、神を見る。

そして、自らの罪を許し得る存在がいるのだから、他者の罪をも許すのだと(私の解釈)して、実母(三井妻)に電話を掛けるところで、本作品は終わる。

何だこれは。

確かに社会的な制裁としての罪と罰と異なり、個人の抱く罪の意識というのは、本人が変化するか、受け入れるか、忘れるか、そういうことが必要なのだろう。

(3)既視感の正体

前作は、罪を犯していない、無実の善意の人たる主人公(陽子)を自殺へ追い込んでいく、逃げ場のない宿命論的世界観が描かれ、また、人の悪・罪を証明していく冷静な科学性を私は感じた。

しかし、本作品は、人の再生の物語である。

主人公は最終的に自身の罪を許す何かを見つけ、変化した。

このシーンは、例えばドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟のアリョーシャの再生のシーンや、手塚治虫の火の鳥の鳳凰編の我王などを思い出させる。

3,黒歴史を作っていた

正直、前作の記事を今読み返すと、また黒歴史を作ってしまった、という感想を抱く(消さないけど)。

社内で誰もやったことがないことを1人で進める事になり、頼る人がいない辛さや作業量の多さから、病んでいたと思う。

その仕事も一区切りがついた。

そのため、これを書いている今は病んでいないと思う。

地獄がどこにあるか知っているか?

頭の中だよ。

私の中に入っている人類の闇は、通常のテンションではアクセスができないし、健全に再生したのだなと思う。

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